和良拓馬『ラストを駆けろ』

 走っても良い、という指示は出ていなかった。
 でも、俺は今、走り出さないといけない気がしていた。

「1塁ランナー代わりまして、瀬川くん、4年生、上町高校、背番号21……」

 ウグイス嬢に呼び出された。代走で俺は野球人生のラストを迎える。

 10月下旬の明治神宮野球場。空には薄い秋の雲が広がっている。観客席から、山本リンダのヒット曲が流れる午後3時半。ゲームはそろそろ佳境を迎えようとしている。

 勉学もスポーツも万年5位の我が母校と、今日勝てば優勝を決める一流大学との試合。8回表で、点差は5のビハインド。相手の観客席は色めき立っている。

 マウンドには先日のドラフト会議で某チームから4位指名を受けたエースがいる。センターのあいつは、パ・リーグのあそこから2位だったな(なお、うちの大学からはゼロ)。ああ、甲子園と神宮で脚光を浴びるだけ浴びて、それでもの足りずプロに行くだなんて。

 それに比べて俺はどうだろうか。

「お前なら、大学でも十分実績を残せるよ」。

 そんな言葉を恩師にかけられたのが人生のピークだった。苦学の末、文武ともにちょうど良いレベルの大学に行ったつもりだったのだが、それが間違いだった。
 スタメンに座るのはスポーツ推薦でやってきた実力者ばかり。投げる、打つ、守る、走る……。そんな一つひとつのプレーが、自分の未熟さを炙り出してしまうのがショックだった。

 何とか這いつくばって、4年間頑張ってきた。最後1年間はベンチにも入れた。でも、野球を上手くなりたいという熱は失われていた。

 野球部という肩書きは、この大学のどの学部よりも有益なものだった。苦戦する一般学生を尻目に、地元銀行への就職はあっさり決まった。
 やっぱり、自分の人生は野球とは無縁だったんだ。最初からそうだったんだ……。

 でも、この1塁ベースに立った瞬間から、ずっと頭の中で別の感情が湧いてくる。

 このままで良いのか。
 このまま大人しく、このベースに立ち続けるだけでいいのか。
 誰かがヒットを打ってくれたら、俺は仕方なく走るのか。

 ずっとずっと、俺は俺自身に問いかけている。くそっ!

 ベンチを見ても、監督はサインを出そうとはしない。
 バッターを見ても、打つかどうかははっきりしない。
 周りにいるファーストやセカンドを見ても、俺に対する警戒心は無い。
 観客席も、俺に注目していない。

 ピッチャーを見た。
 頭の中に何かが突き刺さった。
 グローブの中が見えた気がした。ボールの握りは……あれはスローカーブだな。遅いボールならば、ひょっとすると、俺の足でも……。

 球種は見事に当たった。
 俺を全く警戒していなかったバッテリー。呆気にとられた1年生のキャッチャーは、慌ててボールを投げた。でも、そのボールはセカンドのミットを遙かに越えていった。

 それを見届けると、俺はベースを力強く蹴った。
 走りたいんだ、俺は。最後まで、いや、最後だから。

「おいおい!」

 3塁で待ちかまえていた同期が、少し強めに頬を叩いた。ヤツは早めにドロップアウトし、今は学生コーチをしている。

 ヘッドスライディングのせいで、ユニフォームは泥だらけだった。
 俺はあのとき、よく見ていなかった。スタートを切ったあと、慌てる内野手たちを見て、カバーに入ったセンターがいたことを。
 レーザービームのように、一直線でボールがサードのグラブに吸い込まれる。しまった……。

「それにしてもなあ」。
 学生コーチは含み笑いで続けた。
「3塁に向かってきたお前、ニコニコだったぞ」。

 立ち上がり、土埃を払う。周りはもう、8回裏の準備をしている。何だよ、余韻に浸る暇も与えてくれないのかよ。

 空を見上げた。薄い太陽の光が、ダイアモンドを柔らかく輝かせている。
 そうか、ようやく自分自身の意志で何かを決めることができたんだ。だから、これからも後悔する前に、俺は走り出せるかもしれない。

<了>