焦田丸『あなたのほかに』

「火を灯して野に放て」

 感情が、そう告げている。乾いた手のひらにぎゅうっと包まれた青いライターが滑る。

 いいや、それではあまりに冷たすぎる。その存在はあなたから遠すぎる。

 冷静なわたしがそう返す。

 コンビニでマッチを一箱買う。紙の箱のざらりとした手触りが、あなたの何かを思い起こさせて、わたしはマッチ箱を握りつぶしたくなる。肘を張って目を固く閉じ、最初の目的を果たすためになんとか我慢して草原まで歩く。

「あなたの、手」

 冬枯れた細い木が、あなたの顔をして泣く。わたしはマッチを擦って、枯葉の中に放る。たちまち紅い柱が立ち上り、あなたの骨張った手を灼く。

 ため息をついて振り返り、その場を去る。コンビニ店員の顔が思い出される。あなたの面影が、どこかにあった。

 あなたのほかに、あなたはいない。

 この先ひとり、あなたなしで生きてゆく恐怖に、あなたを思い出しながらひとりで生きてゆく恐怖に、わたしは堪えるわけにはいかない。だから、あなたを思い起こさせる存在がこの世にあってはならない。

 あなたの存在の痕跡全てをこの世界から消し去ってしまわない限り、わたしは生きてゆくことができないのだ。

 わたしはコンビニに戻り、いちばん大きくてごついガラスの酒瓶を買う。店員が釣銭を数えている一秒のあいだに、わたしは決心を固める。瓶を思い切り振り上げ、恐怖でひきつる店員の頭を打ち砕く。

「またひとつ、この世界から消し去ってやったね」

 誰かが耳元で囁く。

 店から出ると、またひとり、そしてまたひとり、あなたの存在を思い起こさせる姿がわたしの前に立ち現れる。

 わたしは瓶を振り回し、丁寧にひとつずつ、存在を消し去る。三つめの存在を消し去ったとき、瓶にひびが入って酒が漏れていることに気がついた。

「役立たず」

 わたしは蓋をひねって、酒を浴びる。強い酒に、顔がひりひりと燃えるようだ。

 わたしは車に乗り込み、キーをひねる。アクセルを思い切り踏み込む。

 どこを見ても、何をしても、わたしはあなたの存在から自由になることができない。向かってくる車に、あなたの面影を見る。わたしはステアリングを切り、車の横腹に体当たりをした。ねじれたような悲鳴が空を裂く。わたしの頑丈な車はビクともしない。

 そうだ、何もかも消してやるのだ。わたしは手当たり次第に体当たりする。あなたの存在が、確実にひとつずつ消滅してゆく。でも、いくら消してもあなたのイメージはすぐに別の誰かに乗り移る。

 気がつくと、サイレンを鳴らしながら何台ものパトカーが迫ってくる。

 サイレンの音は、あなたを思い起こさせる。わたしの人生の全てがあなたと共にあったのだ。あなたの中にあったのだ。この世のあらゆる事象はあなたなのだ。

 そうして紅い光を見つめるていると、素晴らしいことを思いついた。

 どんなに消しても消えぬのなら、わたし自身を消せばいいのだ、と。

 わたしは悟り、猛スピードでパトカーの列に突っ込む。でもパトカーは上手にわたしを避けた。なおも執拗に体当たりしようとするわたしに、開け放たれたパトカーの窓からいくつもの銃口が向けられた。

 わたしは死んだ。もう肉体はない。

 あなたを思い起こす脳はない。

 でも、わたしは思い違いをしていた。魂は、消えはしなかった。あなたの存在は、ますますわたしの中で拡大する。

 わたしはどんどん上空へと駆け上がり、やがて真っ暗な宇宙へ出た。それでもあなたの存在はわたしを離しはしなかった。わたしはただ、無を求め、どこまでもどこまでも闇を追い続けた。