米田淳一「珈琲とタイペック」

 その日、私はまた疲れ切っていた。

 男43歳離婚の寂しい帰り道。

 いつも精一杯だけど、虚しい仕事。

 これやって、いったいなんになるのか、と思うようなことだらけ。

 限りなく意味もなく、限りなく嘘に近い内容と、限りなく薄い給料。

 でも、目の前にある以上は、やらざるを得ない。

 しかもおぞましいことに、それをやり遂げること、諦めないことに、少し酔ってしまったりもしている。

 それに、心から体まで、どっしりと疲れていた。

 軽自動車を走らせる。

 いつもの交差点を曲がる。

 いつもの工業団地の見通しのいい直線道路。

 隠れるところなどない、乾いた舗装。

 細い柱の水銀灯が、その鈍色の路面を照らしている。

 その道路の、喫茶店チェーン店の珈琲のドリップ工場の前。

 白いタイペック(清潔防護衣)姿の工員さんが立っている。

 タクシーを待ってるのかな、と見えた。

 どうとも思わず、その脇を通り過ぎる。

 そして通り過ぎて。

 タイペック着たままタクシー乗るのって、おかしいよなあ。

 そう思って車のバックミラーを見ると、

 その水銀灯に照らされた工員さんは、どこにもいなかった。

 軽自動車をまだ走らせながら、思い出した。

 あ、そういえば「大島てる」に出てたな。あの工場。

 たしか、あの工場で事故で亡くなった人がいたってあったな。

 機械に巻き込まれて亡くなった、って。

 一瞬、自分もああなるのかなと思う。

 私は薄く笑った。

 滑稽だな、自分。

 結局おぞましいのは、これも、今書いている小説のネタになると思った私だ。

 他人がどんな思いで事故で亡くなったかよりも、自分のそっちのほうに気が向いている。

 流しているカーステレオのアイドルマスターのアイドルだけが、明るく歌いつづけている。

 もう業が深いと言うより、ただの愚か者だろ。

 私は乾いた笑いを漏らした。

 早く地獄に落ちろ、自分。

 なんでこんなことしてるんだろう。自分。

 夢を書いてきたけど、夢なんてない。

 ただあるのは、未練だけ。

 予定はあっても未来などない。

 仕事はあっても希望はない。

 夜の闇の中、軽自動車は駐車場に着いた。

 そして洞穴のような、もう妻の帰ってこない、誰もいないマンションのドアを開ける。

 おかえりを言ってくれるのもいない。ただいまを答える相手もいない。

 無言で靴を脱いで、息を吐く。

 これが私の未来だったのか。

 夜は、さらにだるく更けていく。

〈了〉