泉由良「三〇〇グラム」

 三〇〇グラム。汗つぶを鼻のあたまにのせた女は云う。聞こえたのかい、三〇〇グラムだよ。違う違う、そんなふうにして量るもんじゃないよ、まったく呆れるね近頃はさ。

 三〇〇グラム欲しい、君の名前。あなたが云う。君の名前にふさわしい三〇〇グラムを。あなたはゆっくりとした動作でそれを受け取り、私たちは手を繋ぎ指を絡めて家に帰った。あなたの空いている方の腕には三〇〇グラムがきちんと抱えられている。家に着いたらいいことしよう、ね。

 三〇〇グラム。赤いビニルのがま口の財布を首から下げた子どもが云う。「三〇〇グラム下さい」それだけを必死で覚えてきたのだ、この幼い子どもは。それが幾ら払われるべきなのかも知らずに、持たされた紙幣をつかみ差し出す。「そんなには要らないよお嬢ちゃん!」汗つぶをタオルで食い止めながら、女はわらい、ざらざらと釣り銭を渡してやる。「はい、三〇〇グラムだよ」子どもはお辞儀をして、一目散に駆け出す。万引きしたというわけでもないのにさ、と女は苦笑する。ああいうふうにやればいいのにねえ。さっきのふたりもあんな按配でゆけばいいのに。女はなんでも知っている。

 ──つまりは逃げられないんだ、と考えたことはある? 腕のなかであなたに問いかける。こころのなかで必死に繰り返してもあなたは一向に 気付かず私の唇を吸うばかりなので、両手で頬を挟んで引き離して、けれども云ってしまった瞬間から酷く後悔に溺れる。あまりに唐突過ぎた。つまりは逃げられないんだ、と考えたことはある? 例えば赤ん坊のとき、ベビィベッドの柵を引っ張りながら──いいえ違うの、そんな直接的な比喩で逃げられないと云ったんじゃないわ。つまりこういうことなの。私の後ろには影みたいな黒いもやもやがあって、それは私のかかとに接着されているかの如く決して離れることは出来ない、離すことは出来ない、普段は大人しく色の薄いもやもやなのだけれど、夜道をひとり歩いていたら突然見違えるほど巨大化して私を包み込もうとするの。その黒いもの、黒いものから、つまりは逃げられないんだ、と考えるのよ。違う、なぐさめて欲しいのじゃないのよ。私が云って欲しいことにあなた全然気付かない。夜道をひとりで歩かせないで。一緒に歩いて。一番云いたかったことの重さは三〇〇グラム。口にすることが出来ずに、再び私の肩に手を掛け肩甲骨を撫で始めるあなたを感じながら目を瞑る。果たされなかったもの、それが三〇〇グラム。

(了)