根木珠「目」

「こっちを見なさい!」
 母は、私の目をまっすぐ見て怒った。
「ふつう、こういうときなんて言うの?」
 私は考える。わからない。
 答えられない。
「ごめんなさいでしょ!」
 母の手に、力が入るのがわかる。
 私の肩をしっかり掴んではなさない。
 私は呼吸を整える。
 そして、小さな声で、言う。
「ご……ごめんなさい……」
「ねえ、なんでこんなことするの? 私を困らせたいんでしょ! そうでしょ!」
 母は、なかなか私を解放してくれなかった。 私は、お腹のあたりが重くなってくるのを感じた。
 呼吸をするのが難しい。 見えない何かに圧迫される。押し潰されるような感覚……。
 それは午前中、私が小学校から帰ってきてからのことだった。
 母はひとりで家におり、洗濯物をとりこんでいた。 私は夕方遅くまで同級生と遊んでいたため、下校する時間が遅くなってしまった。 帰宅するとランドセルを部屋に置き、すぐに家から出ようとした。 母は、私を呼び止めた。というより、首根っこを掴んで引きずったのだった。 それから母は、私を叱り始めた。私の目を、まっすぐに見ながら。 なんで帰りが遅いの。あなた女の子でしょう。心配するんだから。早く帰ってきなさい。 そのあいだ、私はただ黙っていた。こうするより他に、どうしていいかわからなかったのだ。 そして母は言った。
 ──あんたは普通じゃない。
 そうか。私は普通ではないのか。 うん。どうやらそうらしい。
 学校でも、クラスメイトの言っていることがよくわからない。
 やれ、あのアイドルが好きだの、あのテレビを見たの、あの音楽が好きだの。
なんのことを言っているのか。私の知らない単語ばかりだ。 そして彼らは、私を嘲笑している。毎日。なぜなのか、私にはわからない。
 父は帰りがいつも遅い。私が寝たあと帰ってきて、起きる前には出て行く。 どのような仕事をしているのか、私はよく知らない。 母はいつも、いらいらしている。夜中に目が覚めると、両親の口論が聞こえる。 そういうとき、私は耳をふさぐ。暗い部屋のなか。光もない。音もない。 なにもない世界で。
 あれから何年、経ったろう。
 なぜ、僕の顔を見てくれないの。 パートナーによく、そう言われる。 ひとは顔を見てもらえないと不安になるのらしい、ということを学んだ。 そして彼は、言った。
「あなたは、ふつうじゃないんだよ」
 私の目を、まっすぐに見て──。